親子の「孝」の文化とは?
- Shinyong the Chameleon

- 1月14日
- 読了時間: 4分
友人の50代未婚の女性。
恋も諦めたわけではないのに、
友達と外出するのにも駄々をこねる
母親の世話をしながら機嫌をとり、
亡くなったお父さんの遺品の
片付けを手伝いながら自分の仕事もし……。
この友人のいいところは、
決して自分の選択に
不満を言うわけでもなく、
「幸せになりたい」とため息を
つくわけでもない。
明るく、食べることが
大好きな素敵な方です。
私も彼女の生き方に
意見することなく、
話を聞いて尊重している次第です。
ところが、
自分の両親の面倒を見る話になり、
私は正直に、
「子供の負担になり、将来を束縛し、
面倒を見てもらうことを
当然のように思っている
親は親として未熟である」
とバッサリ言いました。
仕方のないことだってあります。
予想外の急な旅立ちや
体調の変化などありますし、
共に協力する相手がいない場合や
先立たれた場合だってあります。
一人では
どうしようもないこともあります。
誰かに迷惑をかけることや
お世話になることを
否定しているのではなく、
子供に最初から「おんぶ」されるのを
「当然」と考える思考に
黄色信号が点るのです。
子供側がそれを
喜んでいるのであれば、
それで結構だと思います。
他人がとやかく
言うことでもありません。
その友人も「喜んで」状況を
受け入れて、
お母さんと共に暮らしています。
(すごく苦労しているように
見えるのですけど……)
でも、同じアジア圏出身の
私に友人はこう言ったのです。
「でも、これが文化じゃない?」
え???
背筋がゾッとしました。
自分の置かれている
シチュエーションは文化だから、
受け入れると言うのか?
一瞬考えましたね……。
若い時にも言われました。
これもアジアですけど。
「それが孝の精神だろう」と。
当時20代、
これに反論しましたけど、
その「文化」が都合のいい方々には
論破どころか、
ただの生意気にしかなりませんでした(笑)。
基本的な反論ポイントは以下の通りです。
1)文化は強要するものではない。
嫌なら、距離を置くのが肝心です。
あるいは第三者に相談するべき。
手遅れになる前に行動できたら
理想的ですね。
2)孝は無条件の服従を
意味するわけではない。
孝の精神は
儒教の核心的な倫理ですが、
無条件の服従を
意味するものではありません。
孔子は、親子関係を
人間愛の基礎としつつ、
親の行動が道義に反する場合、
子は適切に諫言
(正しい道を勧める)すべきだと
教えています。
これは、親の過ちを放置することが、
かえって親の名誉を損なうと
考えられるからです。
孝の精神は、
親を敬う心から出発しつつ、
家族の健全な発展を促すものです。
親が子に過度に依存し、
子の人生を束縛するような態度は、
子の犠牲を当然なものとし、
儒家の調和とは相容れません。
親が不義を犯せば、
子はそれを黙認せず、
敬意を持って諫(いさ)めるべきです。
これを現代の文脈に当てはめると、
親が子の将来を束縛するような
「当然の依存」は、
親の過ちとして諫める対象となり得ます。
子が喜んで受け入れる場合を除き、
他人がこれを「立派な孝行」と称賛するのは、
孝の精神を歪曲したものです。
この教えは、
親子関係が相互の成長を
促すものであることを示しており、
一方的な犠牲を強いる解釈を論破します。
孝の精神は親の敬愛を基盤としつつ、
道理と調和を重視するものです。
親が子に「おんぶ」を当然視する思考は、
黄色信号どころか赤信号です。
子が喜んで
受け入れる場合を尊重しつつも、
他人がこれを強要するのは避けるべきでしょう。
友人に対しても、
彼女の選択を尊重しますが、
孝の本質を再考する
機会があればと思いますが、
まあ、まずないでしょう。
正直な意見を言っても
響いていないのですから。
おそらく、
高齢の「おんぶ抱っこ」組は
友人を「立派な娘」さんと
讃えるのでしょう。
それが嬉しい場合もあります。
成立しているであれば、
それでいいのではないでしょうか。
だってその人の人生だから。
その人にとっては、
それが「正解」もしくは「最適解」なのです。
我が家の場合は、
遠くにいることが「孝」なので、
自分がやるべき仕事を
しっかり成し遂げることが
親への恩返しだと考えています。
恨んだりしません。
理解してくれているかどうかさえ
せんなきことでしょう(笑)。





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