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菩薩が知らせてくれたこと

夢で生まれた時の様子を

見ました。


もちろん本当にそうであったか

知る由もありませんので、

ただ見せられたことから

学ぶだけです。


それを信じるとか

信じないとか、

私にとってはほぼ

どうでもいい話です。


さて、夢の話です。


生まれて、取り上げられた時に、

菩薩のような、

とても神々しく整った、

涼しげな顔の三人が

私の顔を覗き込むように

見ていました。


そして口々にこう言うのです。

「おや、まあ。

大変だこと。」

「あら、まあ、

かわいそうに。」

「憤怒の形相をしておるな。」

「憤怒の業(ごう)を

背負ってきてしまって。」


夢の中で赤ちゃんの私は、

一体何がかわいそうなのか

理解ができません。


「憤怒(ふんぬ)」と言われれば、

仏教で言うところの、

不動明王でも有名な

明王部の大方の皆さんですね。

私は長年ことあるごとに

この不動明王には

お世話になってきましたし、

「火」のエレメントを

持って生まれてきているので

縁があります。


合点のいく話ですし、

合点のいくように

夢を見ている、とも言えます。


私は「憤怒の形相」や

「憤怒の業」と言われて

全くわからないわけではありません。

人生通して、そんな感じです。


要は「あの」お顔ってことでしょう。

生まれた時から、怒り狂って

生まれたと言うことでしょうか?


それはそれは、まあ

激しいですね。

でも、わからなくもないし、

正直のところ

「だから、どうした?」

という気持ちです。


その瞬間、

一人の菩薩が言うのです。

「女の子なのに、

そんな猛々しい顔で

生まれてはかわいそうに。」と。


あは〜ん。

来やがったな。

また、私の弱き心を

突かんとやって来たか、

このペテン師め。

(今度は菩薩をペテン師扱い)


以前の私なら

この菩薩にうろたえて

いじめられて泣いたことでしょう。

私は自分の見た目を

極端に嫌っておりましたから。

人目につく仕事をしていたのも

美しくなりたいからでした。

この醜悪な自分を

どうにかして輝かせたい、と。


その私が今、夢で

「だから、どうした」と思えたのは

快挙でした。

かわいそうではありませんよ。


もちろん年をとったから

諦めたのではなく、

最近自分を

こんなにも好きだったのかと

気づくことが多くありました。


驚くことに

自分の写真を大事に

飾り始めたのです。

自分の顔を見るのも

あんなに嫌だったのに!


ああ、確かに

菩薩ではある。


私が乗り越えたのを

知らせに来たのか、と。


そう思った瞬間、

「ふふふ」と

不敵な笑みを浮かべ、

ちょっと小馬鹿にしたような

余裕さが鼻につきますが、

菩薩三セットは

去っていきました。


憤怒の業(カルマ)は

それはそれで

思い当たる節があるので、

今後も天の道に違うことなく

研究して、精進していく所存です。


良き方向に使えば

必ず道が開けるし、

このカルマが私の使命でもある

と言うことです。


私は、私です。


他の何者でもありませんし、

他の誰かの人生を

歩きたいとも思いません。

今一度、自分に与えられたものを

私もしっかり味わおうと思います。


年をとると若い頃に

大事にできなかったものや

気づけなかったものを

大切に感じられるようになりますね。

慈しめるようになります。


それは虚空の愛です。

時間のある、この世の

美しい魔法であることを

皆さんとも共有できたら

なおのこと、よきかな、よきかな。


それでは、また。

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