驚いた能力の謎の答え
- Shinyong the Chameleon
- 5月17日
- 読了時間: 4分
誰もが霊性を持つと言われますが、
それを理解するのは簡単ではありません。
ましてや、私が見えるものをそのまま、
その都度伝えるのは、さらに難しいことです。
一言で表現するなら、「真実より残酷」だからです。
多くの人は、私が見るビジョンに困惑し、
耐えられないでしょう。
振り回されれば、人生を棒に振ってしまうかもしれません。
私自身、長い間、自分がおかしいと思い込み、
孤独で苦しい人生を送ってきました。
隠すのも、さらけ出すのも本当に苦しく、逃げ場がありませんでした。
それでも、なぜ見えたり感じたりするのか。
あまりに苦しすぎて、特別な使命があるとか、
選ばれた存在だとか、ギフテッドなんて微塵も思えませんでした。
しかし、心から理解してくれる人が現れたり、
話を聞いてくれる人ができたり、
実際に人の役に立つことで、
少しずつ信頼を積み重ね、
自分自身の居場所を見つけられるようになりました。
先日、満月のタイミングで、
夢の中で長年の謎が解ける答えをいただきました。
私のこのスピリチュアルな能力は、
私にとって、孫悟空の頭の輪っかだったのです。
孫悟空の頭の輪っかは
「緊箍児(きんこじ)」と呼ばれるものです。
これは、『西遊記』に登場するアイテムで、
観音菩薩の指示により唐三蔵が孫悟空に着けた金の輪です。
孫悟空の暴れん坊な性格や
反抗的な態度を抑えるために使われました。
唐三蔵が特定の呪文(緊箍咒)を唱えると、
輪が締まり、悟空に激しい頭痛を与えて従順にさせます。
仏教の力で荒くれ者に規律や責任を教えたエピソードですね。
決して自虐的になっているわけではありませんが、
客観的に自分を分析すると、
私の性質は高慢で、圧力的で、まるで暴君そのものです。
わがままで、支配的、直情的、ワンマンな要素をこれでもかと持ち合わせています。
だから、仲の良い鑑定士の深津先生や
そのおじさんは、私のことを「閣下」と呼ぶのです(笑)。
ところが、このスピリチュアルな能力は、
私の暴君のような要素を、
物心ついた頃からバキバキと折ってきました。
思い当たる節がありすぎて、
夢から覚めたとき、すっきり納得したのです!
愛し、愛されることを学ぶために、
天が与えた厳しい愛だったのか。
それとも、魔が与えた呪いだったのか。
どちらも正しいと思っています。
悠々自適に「飛ぶな」と、
とんでもない足枷をはめられたのです。
それにしても、なんともタチが悪いですよね?
幼い頃は高台から
本当に美しい景色を見たのですから。
その後、突き落とされたのです。
そのギャップは口では言い表せません(笑)。
もしこの能力がなければ、私は人を下に見て、
暴言を吐き、高慢で傲慢な態度を繰り返していたでしょう。
それでも強い力を持ち、人から愛されるのではなく、
人を服従させていたかもしれません。
最後は一人寂しく孤独を迎え、
恨まれてひどい目に遭っていたかもしれません。
実は、それを裏付ける例も近くで見ています。
親族に同じ宿曜を持つ方がいるのですが、
その方は残念ながら
まさにそんな人生を送っています。
私はこの足枷を、
「贈り物」だと感じるようになりました。
確かに、あの突き落とされた感覚は、
今でも胸の奥で疼きます。
でも、この痛みがなければ、
私は「人」と向き合うことの意味を知らなかったでしょう。
この能力は、私に「見える」ことだけでなく、
「感じる」ことを教えてくれました。
人の喜び、悲しみ、葛藤。
それらが、まるで自分のもののように胸に響くのです。
最初はそれが重荷でしかありませんでした。
けれど、誰かの心に寄り添い、
ほんの少しでも光を灯せたとき、
初めて自分の存在に意味を見出せました。
今、振り返ると、
この能力は私を「人間」にしてくれたのだと思います。
高慢な暴君のままでは、
誰も本当の意味で私を必要としなかったでしょう。
孤独の中で朽ちていくだけです。
これからも、この「緊箍児」は
私の頭に残るでしょう。
時折、締め付けられるような痛みを感じるかもしれません。
それでも、逃げませんよ。
もうこれからはこの能力は、私を縛るものではなく、
導くものだからです。
いつか孫悟空のように
この金の輪が取れる時
取れたことさえ気づかず、
「あれ、取れてたね〜」なんて言いながら
笑ってられたらいいなと思います。
Comentários